[長栄合資会社製造の時計]
明治中期関西において大阪や京都に少し遅れること奈良でも時計製造が始められた。
明治期国産時計の製造地は人口密集地、つまり消費地がそのまま製造地となる事が多かったようで資金、製造技術、資材、人、消費者と立地条件が整った場所が大都市であった。
それらの条件が合った場所、東京、名古屋、京都、大阪などの大都市がそのまま時計製造地となり、明治期国産時計がそこで多く時計が製造され更なる技術発展をしていった経緯がある。
これらの地域は江戸時代から和時計の製造地でもあり経済力、技術、資金、資材、人材などの条件が整っていた事と西洋の先進文化がいち早く伝わった事が西洋時計製造を容易にした様である。
この古都奈良においてもその条件は十分満たしていたが、何故かしら先進の西洋時計製造に関しては大阪や京都より少し遅れて事業展開される事となる。
明治27年(1894)7月、奈良県式上郡織田村に西洋時計製造会社が誕生、製造会社の名は「長栄合資会社」、資本金1,400円、従業員約50名、動力は水力と蒸気を利用して設立される。
この長栄合資会社の時計、現在呼び名が定まっていないので「奈良時計」とか「大和時計」あるいは「車谷時計」と通称呼ばれている時計であるが正式名は未だ無い。
「長栄合資会社」設立に当たり、どの方面より西洋時計製造の技術や熟練工を調達したのかは不明で、現在のところ資料が乏しくて詳しい実態はほとんど分 かっていない。
現存している数少ない現物の時計から推測するしか現在方法が無いのであるが、アメリカ製の機械をモデルとして製造されたことは確かである。
この「長栄合資会社」、当時は製造コストが高く付く為他社では敬遠された「アメリカ製セストーマス社」の旧型機械をモデルに時計製造を開始している点で、製造面で手間もかかりコスト面においても高く付く為、他社が嫌った機械をあえて製造している点に注目される。
何故ならば、この時期先進の西洋時計製造地域では他社との販売競争が激化していた時期であり又、製造面においても合理化がなされ始められた時期であり、長栄合資会社が何故あえてコストが高く付く事と手間の掛かる機械を製造する事にしたのか。 旧型の機械は地金板が大きく当然の事として歯車も大きく設計されていて、その分真鍮の地金も多く使用されるのは当然のことでありコストも高くし、尚且つ歯車が大きいために歯車の補強が要求される。
セスト-マス社の機械は一番車、二番車、三番車の歯車に補強の溝がプレスされており、このプレス加工にも技術と精度の高い金型が余分に必要になる。
何故後発の時計製造会社、長栄合資会社が他社の製造した小型機械より地金板も多く使用する旧型を採用したのか、又金型もより複雑な構造の高く付く金型にし、製造するに当たり高度の技術も当然必要とされる機械をあえて導入しのは何故か。
現存している数少ない長栄合資会社製造の機械を見るに思ったよりは製造技術がよく出来も良い、当時ほかの地域での他社が製造した多くの時計機械によくあるバリが長栄合資会社製造の機械にはそれが見受けられない。
これは動力が水力であったわりに製造時丁寧にバリを削ったのか技術面においても高い技術を兼ね備えた会社であったと思われ、全体は分からないが現存数が極めて少ない中での参考比較であるが機械の出来栄えは丁寧な造りで非常に良い。
この長栄合資会社高い製造技術を誇り多くの時計を製造したと思われるがどうしたわけか現存数が極めて少ない時計で資料も乏しくその実態が分からない。
この製造会社どれだけ製造したのか、又どんな種類の時計をどれだけ製造したかも不明であり「幻の時計」の一つとされている。
奈良の「長栄合資会社」で製造された時計、現在発見されている物は八角型掛時計3台と張四ツ丸ダルマが2台の計5台のみであり極めて少ない。
この時期は他社も海外に輸出をしだしていた時期であり長栄合資会社も海外に販売網を確立していたのか分からないが国内の製造販売数も少なくはないはずであるが何故か発見台数が非常に少なく、現在唯一見学できるのは大和郡山の資料館にある時計一台でのみある。
長栄合資会社は短期間でその時計製造生命を絶っているので、今後多くの長栄合資会社製造の時計が数多く発見されることを望みたいと思う。
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